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 続けざまにゲーム系エントリーです。今回は少しいろいろな方向に話しが飛びそうな感じです。あと、僕は任天堂信者と言われても否定できないくらい任天堂のハードとゲームで育ってきた人間で、なんとなく任天堂に愛着があるので、今回のエントリーがWiiよりになってしまうであろう事をあらかじめわびておきます。いやまあ、プレステもプレステ2もサターンもPCエンジンもFXも遊んだしそれぞれに好きなゲームあるけどね。プレステだとゼロディバイトとかエターニアとか闘神伝とか、2だとスカイガンナーとかファンタビジョンとか無双2とかガンダムDXとかアーマードコア3とか、サターンだとガーヒーとかガングリフォンとか、PCエンジンだとモトローダーMCとかシュビビンマンとか名前忘れたけど幽白の六人対戦できるやつとか、FXだと纏組みとかゼロイガーとかブルーブレイカーとか。
 話がそれましたね。すいません、書き始めたら止まらなくなりました。任天堂のゲーム以外だとこういうゲームをやってきた人間と思って読み進めていただければと。

 で、本題。
 最近たびたび感じるのが、スペックの良いハードで出せば当然のごとくクオリティの高いものになるという意見や、だからもっといいスペックのハードで出せと言う意見をたびたび見ると言う事です。
 これはまあ、一つの面としては非常に正論で当たり前の意見です。アーマードコア3をそのままのクオリティでプレステに出せるかと言えばそりゃ無理な話ですし、とうぜんスーファミとかファミコンでとなればゲームシステムの維持すら難しい、つーか不可能でしょう。
 じゃあ、無印のアーマードコアをプレステ2に出せば何もしなくてもクオリティが上がるのかと言えば、それもまた違うでしょう。環境の違いとかの問題もまああるんですが、そういうところを抜いて考えても、モデリングなどの、クオリティアップと言われた時に一番影響のある部分にかかる手間が違うはずです。開発環境の差で、実は3の方が無印の時よりも楽だったと言う事はありえますが、同じ環境下でどちらの方が楽かと言えば無印の方でしょう。まあそんな事、遊ぶ側からすれば知ったこっちゃ無いと言うところですが。
 ですが、より手間がかかると言う事は、大体の場合よりお金がかかると言う事です。今の時代、と言うかスーファミの時代の時点でそうだった気がしますが、一人二人擦り切れる勢いでがんばればより良いものが出来るなんてものじゃないです。根本的なゲームデザインに関わる事とかならそうでもないと思いますが、スペックが上のハードで上がるクオリティはそこではないでしょう。そういうゲームは、根本的にスペックが下のハードでは出せないと思います。
 それで、お金がかかるとなれば、当然利益を出すにはより多く売れないと困りますし、そもそもそんなに投資できないと言う所だってあるでしょう。MSやEAにだって資金に上限はあります。
 また、お金の事とは別に根本的なところとして、これ以上クオリティを上げる必要が無い、そもそもどうやればこれ以上のクオリティに出来ると言うんだというものもあるかもしれません。

 と言うわけで、スペックが上のハードだとしても、実は大して変わらないものしか出せないと言う可能性は十分あると思います。



 ここからはこぼれ話になりますが、お金がかかると言う事はほんと色々問題です。今現在、世界のコンシューマ市場がすごい膨らんでいるので、お金がかかるものは当然のように世界をすえたものになり、言い方は悪いですが、国内はそのお零れと言う形になると思います。国別だけで見ればまだ日本市場もそれなりの存在感はあると思いたいですが、文化圏的に分けて考えると、日本的市場と言うのは不利な感が否めない気がします。そうなれば、次第に日本的市場も世界的市場に染められてしまうでしょう。それが一概に悪い事とは言えませんが、娯楽に独自性と言うのは結構得難いもので、それがなくなってしまうかもしれないというのは惜しいと思ってしまいます。
 じゃあ、その独自性を保つためにどうすれば良いのかと言う話で、要するに日本市場だけでも利益が出るようなものを作れる環境があれば良いのではないかと思うんです。任天堂がメインストリームの据え置き気で敗れていても利益を出して半ば独自路線を突っ走っていたように。まあ、携帯機があったので一概に同じとは言えないでしょうが。
 身の丈にあった生き方と言うのは非常に重要だと思うんですよ。
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 前回のエントリを読み返していて思ったんですが、遊び手と作り手の観点としてのゲームらしいゲームに関する自分の意見は前回の通りとして、売り手の観点としてのゲームらしいゲームの事が抜けていました。今回、その補足と言う形のエントリになります。

 売り手として見た場合、ゲームらしいゲームとは、需要がすでにあることが分かっているゲームではないかと思います。ゲームらしいゲームが従来型ゲームと言う言葉と同じように使われている場合は、大体コレでしょう。売り手と言う言葉にピンと来なかったなら、他人から見た時の、と言っても良いと思います。もしくは、多数決で見た、とか。
 ゲームらしいゲームと言うのは、これこそがゲームだと考える人がいるからゲームらしいわけです。ですから、自分の感情からはなれて赤の他人としてみた時、そう言う人が多いゲームなら、それこそがゲームらしいゲームでしょう。そして、ゲームを進んで遊んでいる人がこれこそゲームだと考えるなら、当然その人はそういうゲームを遊ぶはずですから、そこに需要が存在する事に成るのではないか、と言うのが前段の主張に至る思考の流れです。

 そして、売り手から見たゲームらしいゲームが、需要がすでにあるところに供給されるものであるなら、それが売れないのは
1供給過多になっている
2商品としての質が低い
3すでにその需要が無い
上記のどれかではないでしょうか。
 1に関しては説明不要でしょう。なにもゲームに限らない、市場原理の根幹です。先に待つのは淘汰か、行き過ぎて荒地となった市場でしょう。後者の場合は3に移行と言う事になりますか。
 2と3の境界は結構難しいところですが、多数の人が練り込み不足を感じるようなものが2に入りますね。ゲームは基本的に先払い形式なので、こういうものを出した場合、それ自体の売り上げよりも、次回作の売り上げが落ち込むと思います。ただし、光るものがある場合は逆の事もあるでしょうが。
 3はもう、まんまですね。欲しいと言う人がいなくなっていれば売れません。先の考え方で言えば、売り手からみるとすでにゲームらしいゲームではなくなっているともいえます。

 これを逆説的に考えれば、きちんと作られていて、競争相手もそれほどい無そうなのに売れないのなら、それはもうゲームらしいゲームではなくなっているのではないかと思います。あくまで売り手の観点から、ですが。


 前回のエントリを書いた時も多少感じはしたんですが、こうしてみると、ゲームらしいゲームと言う言葉は、立ち位置をきちんと明確にした上で使わないといけないものだと痛感しました。基本的に僕は自分を中心にした遊び手の立場でいるので、人の書いたものを読んでいた時、話の繋がりが分からなくなる事がたびたびあるのは、ここら辺の立ち位置の差だったんでしょうか。
 お久です。下手すれば三日坊主も真っ青な勢いで一年放置と言う事になりかねなかった当ブログの、久々のエントリです。


 今回は自称ゲーマーの方が、場合によってはゲーム会社の人なんかがゲーム観やゲームの市場を言及をする時にたびたび見かける、『ゲームらしいゲーム』と言うものは、究極的に個人製作に向かうのではないかという話です。この場合の個人製作と言うのは、本当に一個人による製作と言うわけではなく、フリーゲームや同人などの、言うなれば同好の士で作られるゲームの事です。大抵は独りとまではいわずとも、だいぶ少人数による製作なのではないかと思いますが。
 それと、ここで言うゲームとはPCゲームやコンシューマーゲーム、アーケードゲームなどの、所謂ビデオゲームの事を指すと思ってください。それ以外のゲームにも通じるところはあると思いますが、もしそれについて言及する際は、そうと分かるように修飾を入れると思います。

 ではまず、今回のエントリを書くに当たって、ゲームらしいゲームとはなんなのかに言及したいと思います。
 そのために、そもそもゲームとは何なのか、と言う事について。僕の個人的な意見といたしましては、ゲームとはあくまで娯楽であり、楽しむものだと思います。ゲームは単なる娯楽ではないと言う方はいらっしゃるかもしれませんが、ゲームは娯楽じゃないという方はいないのではないかと。ゲームである必要性と言う面から双方向性や手軽さ、あるいは非現実性なども考えられますが、それらは全て楽しむ為の手段にすぎません。
 そして、ゲームが楽しむものであれば、その本質は面白いと言う事になるのではないかと思います。面白くないゲームは楽しみ辛いでしょうし、面白いゲームは当然のように楽しめるでしょう。
 であるならば、ゲームらしいゲームとは、面白いゲームと言う事になります。これだけなら、まあ当然といえば当然の結果ですが、問題は『らしさ』です。
 ゲームらしさを追求するという事は、ゲームである必要性を追求すると言う事ではあると思いますが、さらに突き詰めれば面白さを追求するという事でしょう。
 では、面白さとは何なのか。この問いかけほど意味がないものはないのではないかと思います。それは個人個人で異なり、そもそも言葉にする事すら難しいものです。言葉に出来たとしても、改めて言及してみると、それは後付けの理由になると思います。自分の人生で面白いと感じたものを列挙し、それらの共通点を探っていっても、結局は面白いから面白いとしか言いようがないところに落ち着いてしまうではないでしょうか。
 そうであるなら、ゲームらしいゲームを作るという事は自分が面白いと感じるゲームを作るという事になり、ゲームらしいゲームを遊ぶという事は自分が面白いと感じるゲームを遊ぶという事になります。
 もうピンときたかと思いますが、自分が本当にゲームらしいと思うゲームを遊ぶ為には、自分でゲームらしいゲームを作るしかないと思います。他人の感覚と自分の感覚が寸分の狂いもなく噛み合うなんて、少なくとも僕は信じられません。
 そんな訳で、もしゲームらしいゲームがあるとするならば、それは自分で作ったもの、少なくとも自分が製作に関わったものとなり、ゲーム会社に所属してない人が言う場合は個人製作になるのではないかと。ゲーム会社に所属していたとしても、諸般の事情により、本当に自分の作りたいものとは別物になると思うので、やはり本当にゲームらしいゲームと言う事になると個人製作になると思います。ちなみに諸般の事情と言うのは、何も予算やら期限やらという悲しくなるような理由だけではなく、自分以外にも面白いと感じてもらうためという真っ当な理由も含まれます。


 極限までゲームらしいゲームとは自己表現の極地になり、ある種の芸術作品になる気がします。結果としてそれを商業的に扱える可能性は否定しませんが、商業をある程度念頭に置かないといけない中でそういったものを作るのはなかなかに難しいかと。
 そういう意味では、EveryExtendや洞窟物語のように、フリーゲームから拾い上げるという方法が、ゲームらしいゲームを商業に載せる手段としては一番有効な気がします。もっとも、あくまで作り手にとってのゲームらしいゲームですが。
刃物を振り回す人は犯罪者だし、刃物をちらつかせて脅しても立派な恐喝罪だよね。
 最近ちょくちょく見かける議論の中で、blogの『お客様』と『参加者』について考えることがあった。まあ、元の議論はblogとはまったく関係ないんですがね。あれです、同人がどうとかいうはなし。それに関しては、何と言うか、飲み会に本気で『飲み食い』に行ってる人たちと『雰囲気』を楽しむ人たちの間で亀裂があるなぁと感じたのですが、まあそれに関しては置いておいて。

 以下の話はあくまでblogにおけることで、同人即売会の場合、特に『参加者』が負担する資金面と対価の関係や場の提供者などの関係で色々と違いが出てきます。安易に同一視はしないでください。まあ『お客様』が周辺事情を調べない、というあたりは同じだと思いますが。



 僕の個人的な意見として、blogのコメント欄と言うのは議論に向いていないと言うことがあります。いくつか理由はありますが、その一つとして今回の話にかかわるのが、オープンすぎると言うことです。所謂『お客様』でも参加できてしまうあたりですかね。それを書いている人がどういう立場でどういう思考でどういう書き方をするのか調べる気もない人たちです。
 blogのコメント欄と言うのは極論を言うと身内向けです。さっきの言い方で言うと『参加者』向けです。そのエントリーがどういう流れでどういう思考の元にどういう書き方で書かれているかわかっている人なら、ぱっと見てどういう気で言っているのかある程度分かるので、気楽にレスポンスでき、その結果を見ることができるコメント欄と言うのは大変便利でしょう。
 しかし、『お客様』はそんな周辺事情なんて調べず、その一つのエントリーに集中し、そのエントリーから得られた情報と自分の中にある自称常識だけでコメントしてしまいます。そしてその様に書かれたコメントも不特定多数に見られるわけで、同様に噛み付かれたりします。少数ならまあ生暖かい目で見ていればいいですが、数が増えてくると噛み付いていくコメントが数珠繋がりになっていって、収拾が付かなくなります。挙句便乗する馬鹿も出てきて、大元の議論は灰になってどこかへ飛んで行ってしまいます。
 エントリーは一つで完結しているべきと言う人も居るでしょう。まさしく『お客様』の理論です。
 確かに、モノを読む前に金を取るようなプロならそうであるべきでしょう。しかし、blogを書いている人間は基本的にプロでは在りません。エントリーを読む前に強制的に対価をとったりは、基本的には出来ません。アフィリエイトにしても、ダミーのリンクから飛ばすような事をしない限りは、言葉巧みに誘導してクリックさせたいと思うようなエントリーを書くなり、何なりしなければいけません。
 まあ、最近は宣伝したらお金を出すというようなものもあるそうですが、個人的にどうなのかなぁと思います。お金をもらわなくても宣伝したいと思うようなものを作る気がないのかと思ってしまうので。
 ともかくそういうわけで、コメント欄に書き込む人は、『お客様』であることは歓迎されません。もちろんblogを書く側が何の配慮もする必要がないとは言いませんが。
 むしろ、コメントに書き込んだ時点で、それ自体がコンテンツの一部になるわけで、本人がどういう気であっても『参加者』とみなされるわけです。それが適切でない言葉遣いであった場合はもちろん、周辺部ですでに言及されている内容だったりした場合も、分かっている人間にとっては、なに言ってんだこいつ、と言う事になります。コメントを書き込む段階での『お客様』気分は、ハッキリ言って害悪にしかなりません。

 ここら辺の『お客様』が要る理由は、まあ『参加者』になる敷居が下がったせいでしょう。結果、どれだけ敷居が下がっても『参加者』になる気がない限り『お客様』のままである事に気付かず、『参加者』の領域に踏み込んでしまう事態が起こったんだと思います。所謂web2.0のまやかしに引っかかったという感じですかね。『お客様』はどこまで行っても『お客様』のままです。
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